「半世紀を経て発見された私の作品」

吉澤 章

梱包を解いて先ず出てきた恐竜
1955年アムステルダム市立美術館で開催された吉澤折り紙作品展は、ヨーロッパ各国から南北アメリカ大陸に新しい造形として大きく報道されました。
 そして2004年6月28日、50年の歳月を経て、その作品の一部が私の元に返還されました。その全作品は紛失というか、行方不明となり、手許に戻ってこない作品を思うとき、胸を締めつけられる思いと淋しさ、無念さは創作者にしかわからない苦しみであったと思います。
 全作品には程遠い極く一部ではありますが、その作品の愛しさに抱き締めたい思いで手にしました。50年間のこの作品のたどった経緯を皆様にお伝えすることは折り紙の歴史の重要な部分であると思われます。
 それには私とガーション・レグマン氏との出会いから展覧会をプロジェクトされるまでのことを簡単に話をしなければなりません。1950年頃から私と当時ハーバード大学教授であったG・レグマン氏は、折り紙の歴史、古典作品のことに始まり、折り紙による世界平和のこと、そして私の創作作品について情報を交換して来ました。
 G・レグマン氏との交流のきっかけは「寒の窓」─「何哉等草」の図面「とんぼ」の一片のコピー(手書き)でした。同氏からこの原本を捜して欲しいということでした。「何哉等草」は足立一之という人が何十年かかけて書写や抜き書などして書き留めた自家製百科全書といえるものです。完本は232冊あったようですが、江戸時代の弘化2年(1845年)頃に完了したと考えられるものです。その中に「かやら草」は八巻あり、折り紙に関するものは62頁あります。折り方としてはこれまで知られているものも多いのですが、折り方の図解としては大変珍しく貴重な資料と言えます。この項につきまして改めて研究を発表いたします。それは簡単に今はどこにあると大方の人には知られていますが、そんなに容易いものではなく、朝日新聞社大阪本社をはじめ、それらしい古典の蔵書の多い図書館を尋ね歩きました。今ならばインターネットで検索すればよいと片付けられるでしょう。戦後の復興途上にあった日本ですから一点の折り紙どころではなかった頃です。大変な努力の末、ようやく私は、朝日新聞大阪本社にその写本があることをさがしあてました。(くわしくは「折り紙通信」に掲載)


 私は些細なことも誠意をもって答え、G・レグマン氏と親交を深めてゆきました。G・レグマン氏は折り紙を世界にアピールするには、私の作品を展示して人々に見てもらうことが先決とヨーロッパの国の中からフランスを考えられました。当時、氏はアメリカから南フランスのValbonneに移住されていました。展覧会はパリの画廊で開催されることも決まりました。
 戦後も10年近くなり、折り紙を新聞や雑誌に発表させて頂く機会も少しずつは出来るようになり、作品も相当に出来ていましたが、それだけでは自分で満足できなかったのです。溢れるような創作と制作の意欲は正に寝食を忘れて作品つくりに没頭しました。海外で作品展をする前に、日本の人々に見て頂くのが本意と思い、当時銀座にあった東電サービスセンターのギャラリーで展覧会を開催することができました。このあたりが昔者の私の考え方といえるでしょう。
 各新聞に掲載されたりしましたが、その頃貧しかった私は取材費としての名目で頂いたお金でG・レグマン氏に作品をやっと送ることができました。約束していたパリのギャラリーの会期に間に合わず、G・レグマン氏は伝をもとめてF・チコチン氏に巡り合い、オランダのアムステルダム市立美術館を紹介して頂いたわけです。同展の展示の情報内容はオランダを始め、イタリア、フランス、イギリスなど多くの国の人々に伝わり日本の新しい造形と認識されました。当時の在オランダ日本大使館 岡本季正大使(故)は同美術館にお出向き下さったと、丁寧な御芳書と掲載紙を頂きました。当時のヨーロッパではまだ日本に対する感情が悪かったときであり、大変よい雰囲気をつくられたと言って頂いたことは私にとってもこの上ない喜びでありました。
コガラの巣(親鳥とひな)を保護する手作りの箱とその作品
 1959年、アメリカのリリアン・オッペンハイマーさんが訪日され、折り紙の展覧会をしたいからと出品を要請されました。その当時、私はアムステルダムの展覧会のために殆どの作品をG・レグマン氏に託してありました。それ故にG・レグマン氏に私の作品を送ってもらい、展示するようにしました。私は日本からも大型の作品、くじゃく、仮面その他を送りました。1959年クーパーユニオン美術館で「Plane Geometry and Fancy Figures」展は開催され、私の作品が折り紙の分野に展示されました。
 同美術館のハサウエイ館長から、会期中に是非訪米してほしいというごあいさつがありました。しかしこの時は実現しませんでした。展覧会終了後、オッペンハイマーさんはアメリカ全土を巡回展をしたいと希望されましたが、はっきりとした企画ではないため、作品の返還を手紙で申し入れました。しかし「作品は返します」というのみで、実際には一点も返却されませんでした。オランダの展覧会のためにレグマン氏に送った全作品の点数、アメリカのオッペンハイマーさんに送った全作品の点数、今回発見されて私の手元に帰った作品、それらの作品名、点数を当時の資料、レグマン氏との往復書簡に加えて、薄れつつある記憶を想起しておく重要な責任を感じます。

 1972年、国際交流基金から主として北欧各国に私は派遣され、イギリス、フランスも含まれました。フランス滞在中の土曜、日曜日を利用して南フランスのニースに近いValbonneにG・レグマン氏を訪れました(この分は自費にて)。オリーブ畑の中のアトリエでレグマン氏はあなたの作品の総てをオッペンハイマーさんに送ってしまい、私の手元にはこれだけですと「ねずみ3点」を机の上に飾ってあり、大変淋しいと言われました。しかし、作者である私自身の無念は更につのりました。
 オッペンハイマーさんからは結局1点の返還もありませんでした。彼女の令息(大学教授)の大学についで、ニューヨーク市の日本文化センターで展示したときに観覧者が勝手にそれぞれ持って行ってしまい、全作品が瞬時に失われたそうです。今それを誰が持っているのでしょうか。
 1991年アメリカ、カナダに派遣(国際交流基金より)されたとき、ニューヨークでオッペンハイマーさんにも会いましたが、事の重大さに後悔の念にかられているようでした。
 1999年、G・レグマン氏は逝去、1993年既にリリアン・オッペンハイマーさんも故人となっていました。
 アムステルダム展の作品に関わった主たる人はこの世の人ではなく、その全作品はアメリカで雲散霧消し、僅かに当時のヨーロッパの新聞とクーパーユニオン美術館の記録写真が事実を残すのみとなりました。私の無念さは、私一人のものではなく、折り紙の歴史が正しく伝えられないことになりかねません。
 昨年、即ち2003年8月のBOSの British Origami No.221に作品「みみずく」の写真に一言がそえられて掲載されていました。続いてNo.222 にあのアムステルダム展に送った作品「私の顔」が載っていたのです。このことを私には何の知らせも受けていなかったのも論外という他ありません。
 私は当時、出身地の栃木県での展覧会期中であり、出張中でもありました。栃木展も終り、2004年の年が明けて、私はBOSのデビッド・リスター氏に手紙を書きました。リスター氏は以前から私とレグマン氏の関わりについて熱心に調査と研究をされ、レポートを書かれている方です。以前から彼に私とレグマン氏との往復書簡のコピーや資料を提供してきました。彼は私の手紙のことを直ちにBOS会長のデビッド・ブリル氏に伝えられました。

次々と種々の作品──掌の上は「たこ」
みみずく
 事の真相はレグマン氏が全作品をオッペンハイマーさんに送ったと言われ、それを私が信じていたことです。ところがその内の数十点を同氏自身が保管されていたことになります。私は作品を彼に売ったことも差し上げたこともなく、心からの信頼によって委託していたわけです。G・レグマン氏は作品の総てが手許を離れることは忍びなかったと思えます。何れ作品はオッペンハイマーさんから戻ってくると考え、ヨーロッパで展覧会をしたいと望んでいました。
 レグマン氏の未亡人(展覧会当時の方は既に亡くなって後添いの方)は事情もわからないまま同氏の遺品のオリガミ関連のものをG・レグマン・コレクションとしてD・ブリル氏に送られたということです。
 BOSでは思いも掛けず吉澤折り紙の初期の頃の実物資料を入手したということになります。折り紙の歴史の貴重な宝物が予期せずBOSのものになったと思い込まれました。BOSではこれらの作品が50年も前のものとは思えない完成度の高さに驚きと敬意を表し、真価を理解されました。また、それぞれの作品に合わせた箱を作って入れてありましたから、保存状態の良いことも彼らの目に新鮮であったようです。作品は完全に私の所有物であることを主張しながら、私はBOSに頭を下げて返還を願い出ました。また、私はこれにかわる作品を提供することも申し出ました。創作者である私の所に戻されるのは極めて当然のことであり、このことは現代折り紙の歴史の真実となって正しく伝えられて行くことでしょうと。漸く理解されて返還するという手紙を受け取って一ヶ月がたちました。

 2004年6月28日荻窪郵便局私書箱3号に作品は着きました。大きい段ボール箱2個は発送したときのものがそのまま使われていました。
 箱の開封にはいろいろの意味で関わって頂いた方数人に立ち会って頂きました。
 作品は形に合わせて白ボールで私自身で手作りした個々の箱に納められていましたので、殆ど痛みもない状態でした。しかし、中には幾人かが手にして草臥れたものもありました。どんなに古くなって疲れた作品も我が子です。記録として大切なことには掛け替えはなく、これから修復して元に戻したいと思います。
 当時の新聞に載っている私の似顔は50年前の「昭和30年(1955年)6月1日私の顔」とはっきり作品の後(裏)にサインされています。感慨無量。
 完全に半世紀を経て客観的に自分の作品を顧みることが出来た幸せを感謝します。
 作品は新鮮です。温かく、慎ましく、少し遠慮がちです。しかし、自信を持てる強さや可能性を秘めて、その後の創作の原点になっていると自負することが出来ました。私は間違っていなかったと。折り紙が誰にも親しめるものであるのは嬉しいのですが、造形芸術の範疇として評価されるものであって欲しいと思います。私は折り紙としての理論の確立と技術の向上を留意し、格調の高い作品の制作に努力して来ました。
 新しい造形、現代折り紙の歴史の発祥として半世紀前に海外で評価された作品を折り紙発展のために掲示し、お力をおかりしたいと念じます。(国際折り紙研究会会長)



2004年9月8日「朝日新聞」夕刊全国版に掲載された記事
折り紙を独創的な造形芸術に高め「ORIGAMI]として世界に広めた創作折り紙作家、吉澤章さん(93)の草創期の作品が51年ぶりに日本に戻ってきた。オランダの美術館で展覧された後、行方不明になっていた300点のうちの約40点で、英国で見つかった。吉澤さんは「いいなあ」とつぶやきながら、ひとつひとつを手に取り、「わが子同然」の作品の帰還を喜んでいる。

作家・吉澤さんの40点

 巣の中のヒナに母鳥が餌をやる「コガラ」。吉澤さん自身の顔をモデルにした「自画像」・・・。米国の大学教授の求めに応じて1953年に貸し出したときと同じボール紙にくるまれて、それらは戻ってきた。
 戦後10年となる55年、この教授の肝いりで、吉澤さんにとっては海外で初めてとなる個展がアムステルダムで開かれた。現地の人たちの間での好評ぶりが、日本の外務省の目にとまり、後に世界の約50カ国に「親善大使」として派遣されたり招かれたりするきっかけになった。
 作品はその後、米国ですべて紛失したと聞かされたが、実は一部は教授の手元に残され、その死後、遺族が英国の折り紙愛好家団体「ブリティッシュ・オリガミ・ソサエティー」に寄贈していた。昨年末、妻の喜代さんがソサエティーの機関誌に当時の作品「ミミズク」が掲載されたのを見つけ、「帰国」実現のきっかけになった。
 箱から「自画像」が出てきたとき、吉澤さんの顔にひときわ大きな笑みがこぼれた。オランダへ行けない自分の代わりにと折ったものだ。今の自分より年老いて見える。
 当時、折り紙作家としてやっと脚光を浴び始めたばかりで、生活は貧しかった。記憶をたどるように、吉澤さんのまなざしはときに鋭く、ときに柔らかになった。
 「この時代の作品は、従来の折り紙と、それを革新した吉澤折り紙をつなぐものです」と喜代さんは話す。吉澤さんはその後、のりや切り込みを使わず、1枚の紙だけで自然の造形を細部まで写し取る独特の技法を完成させ、折り紙の分野で「国宝級」とも言われる第一人者になった。
 戻ってきた作品は必要な修復を施した後、公開したい意向だ。


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